E-Quest
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EQ-LAB 2.0
演技 Q&A
中級編
■台本の「ト書き」は、どこまで実行すべきか?
■「ミュージカル」と「音楽劇」の違いとは?
■「プライベート・モーメント」の訓練は必要?
■役の人生と、現実世界の人生。最大の違いは何?
■感情は、リプレイできるのか?
■ロビン・ウィリアムズは、なぜ「アクション!」の直前まで雑談を続けたのか?
■役作りは、事細かにたくさん行うべきか?
Q
台本の「ト書き」は、どこまで実行すべきか?
A
「ト書き」とは、俳優のためのものにあらず……
それは、プロデューサーのためのもの!?
「ト書き」には、感情表現を含まれるものが多々あります。
「悲しそうに」とか、「怒りに震えながら」とか……。
そもそも、感情を先に決めての演技は、俳優の楽器の自由を奪い、心の動きを著しく低下させます。
つまり「言葉で説明された感情を作ろうとすると、どんどん感情は死んでいく」のです。
感情の動きとは、そんな単純なものではありません。
それから。
スタニスラフスキーは、チェーホフの「かもめ」を演出した時、チェーホフが書いたト書きを無視し、チェーホフを怒らせたとか……。(その時から、二人の間には確執が生まれたそうです。)
まぁ、その話はちょっと極端ですが、ト書きに最初から忠実に稽古をする演出家もいれば、俳優の演技の成り行きで自由に変化させる演出家もいる。
……この「ト書き」。
実は、セリフだけでは物語が伝わりづらいので、あえて小説並みにわかりやすくするためのものと考えた方がわかりやすい。
つまり「最初に台本を読む『プロデューサー』が分かりやすいように」するためのものだと言えます。(そうでないと、企画が通らない……)
だから、俳優は、台本を稽古する段階では、ト書きを一旦消してしまう方が、自由を獲得し、感情を動かしやすくなります。
そして、ある程度役が作れてきたら、改めてト書きを復活させ、さらなる役作りのヒントにする、という程度のものとして捉えておいた方が良いでしょう。
Q
「ミュージカル」と「音楽劇」の違いとは??
A
答えは、歌の「出口」と「入口」の位置関係にある。
これ。
ミュージカルに携わる俳優や演出家でも、意外と知らない人も多いです。
答えは「歌の中で、ドラマが展開するかどうか」。
歌の中でドラマが展開するのが、ミュージカルです。
というか、むしろ、ドラマが大きく展開するからこそ、その部分が「歌」として表現されるのです。
ドラマ部分を「歌」にしたものが、ミュージカル。
ドラマが展開するから「歌わずにはいられない」んですね。
余談ですが、あるストレートプレイの俳優さんが、某ミュージカル作品に出演していて「ここからがドラマチックな部分だ、って時に歌になるから、ミュージカルは嫌いだ。そのドラマ部分こそ、セリフで見せたいのに」と嘆いてました。
でも、定義から言ったら「そりゃそうです」。
その、一番ドラマチックな展開を歌にする。ドラマチックになるからこそ、その部分を歌で展開するのがミュージカルなのですからね。
一方。
音楽劇は、ドラマパートを全てセリフで見せ切って、その後に歌が入る。
ドラマが展開した後、そこでたどり着いた心情を歌で表すのが音楽劇。
……言い換えると。
「歌の始まり(入り口)と終わり(出口)で、心境が変化している」のがミュージカル。
「歌の入り口も出口も同じ心境(変化がない)」のが音楽劇と言えます。
これを踏まえ。
ミュージカル曲の歌を練習する際には、その「入り口と出口の『現在地』を変える」ことを取り入れてみましょう。
きっと、あなたの歌は、よりドラマチックな一曲に生まれ変わるはずです。
Q
「プライベート・モーメント」の訓練は必要?
A
アメリカの演劇学校での面白エピソードが教えてくれる、その答え……。
「プライベート・モーメント」とは、舞台上で、あたかもその空間には自分しかいないと思えるようにし、「自分ひとりだけの空間」を創り出す(感じる)こと。
「第四の壁」という概念で客席とステージとが仕切られ、観客は登場人物の人生を「覗き見」しているという現代リアリズム演劇では、このプライベート・モーメントの技術が必要だと言われてきました。
ですが、僕はもともと、その考え方には否定的で、やはり同じように「プライベート・モーメントの訓練は必要ない」「そもそも、それを創り出すことは無理」と唱える俳優や演技コーチたちも多くいます。
……ある、アメリカでの演劇学校でのこと。
プライベート・モーメントのグループレッスンに参加していた男女数名が、あたかもそこに自分一人しかいないように、くつろいだり、自由に振舞っていたそうです。
数分が経過した時。
その中の一人の女子生徒が、服を脱ぎ始めたそうです。(プライベートな空間なら、自然なことですね、確かに。)
その瞬間、それまであたかもそこに自分一人しかいないように振舞っていた男子生徒たちが、一斉に彼女に注目したそうです。
すると、次の瞬間。
別の女子生徒も、服を脱ぎ始めました。
さらに次の瞬間……もう一人いた別の女子生徒までもが、服を脱ぎ始めたのだとか!!
そのレッスンが終わって、彼らにインタビューしたところ、誰一人、プライベート・モーメントなんて作り出せていなかったと答えたそうです。
服を最初に脱ぎ始めた女子生徒は「プライベート・モーメントなんてできるわけがない。ただ、先生がそういうことを望んでいるんだと思ったから、一人でいるように振る舞い、服を脱いだ」と答えました。
さらに、後から脱いだ女子生徒は「隣で服を脱がれたから、私も脱がなきゃいけないのかと思って脱いだ」と答え。
さらにさらに、もう一人の女子生徒は「二人が脱ぎ始めたから、負けじと脱いだ」と答えたんだそうです。
これは、小話としても、非常に面白いエピソードですよね。
もっと身近なところで言えば……
誰も見る人がいない稽古場での自主稽古ほど、気持ちが乗らないものはありませんよね。
むしろ、集中力を発揮できず、気持ちが散漫になります。
僕の考えでは、プライベート・モーメントよりも、意識のどこかで「見られている」と感じている方が、緊張感を維持し、結果、何か一つのことに集中できる(=事実上のプライベート・モーメントの成立)と考えています。
Q
リアルな演技って、ドキュメンタリー映画で勉強するのが一番??
A
役の人生は、たった一つの「やりたいこと」に貫かれている。
役の人生は「貫通行動」に乗せて展開します。
「この役は、何をしたがっているのか?」が、物語を通して変わることなく貫かれているんですね。
そしてそれは、たった一つの「願望」に集約されます。
そして、その願望は、どの瞬間も消えることがありません(スタニスラフスキー・システムの「途切れぬ線」)。
ところが、実人生は、やりたいことが一つに集約されていなかったり、途中で変化したりします。
たとえ、やりたいことを持っている人でも、それを忘れ、そこから解放される瞬間があるはずです。
これは、2時間前後で完結する役の人生と、何十年も生きてきた実人生とでは、それを取り巻く状況の分量が違うから。
長い長い実人生では、あまりに多くの状況が存在するため、一つに集約されていなかったり、寄り道をしたり、途中で路線変更したりします。
たとえば。
悪者を倒すために立ち上がった物語の主人公が、途中で休んで食事をしていても、それは「悪者を倒すために必要な休息や栄養補給」であり、その頭の中には、常に「悪者を倒す」という目的があります。
しかし。
現実世界で、同じような志を持った人がいたとしたら。
その人は、たまには悪者のことを忘れてゆっくりお友達と食事したりしますよね??
その時には、本当に、自分の使命や志を忘れてしまっていたりします。
(厳密には、もっと奥底の潜在意識では忘れてはいないのですが、その階層が、実人生では非常に深い。人生は物語に比べて、はるかに長い時間を生きるからです。)
もし、2時間のドラマの中で、主人公が実人生と同じくらいの振れ幅を持って生きていたら、なんだか一貫性のない人物に見えてしまうと思います。
逆に言えば「一貫性のある瞬間」だけが台本に書かれていて、それ以外の部分は不要だから作家がカットしている、という言い方もできますね。
Q
感情は、リプレイできるのか?
A
スタニスラフスキーが、晩年に語ったこと。
回答準備中・・・
Q
ロビン・ウィリアムズは、なぜ「アクション!」の直前まで雑談を続けたか?
A
考えるな。感じろ。
回答準備中・・・
Q
役作りは、事細かにたくさん行うべきか?
A
ポイントは、分量ではなく、その「速度」にある。
回答準備中・・・